2017/02/24

黙想

キリストは平安の中にいる。


静かに平安の中に佇むとき、そこにキリストがいるのがわかる。


彼はこう告げる。「私はここにいる。ただ私と共にありなさい」と。


そこに平安と歓びがある。そして、強さがある。


こうやってキリストと共にただこの瞬間に佇むことが、

この世でのわたしたちの本来の機能なのかもしれない。


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2017/02/23

平安を求めよ

平穏、平安、安らぎ。

それは、なにものにも代えられないものである。

というよりも、それは、本当はそれしかないのだから、代えられるということがない。


他の何かで代替しようとすること自体が、無謀なことである。

とはいえ、そういうことが出来ると思い込んでいるのが自我である。

そして、この世で行われていることは、すべてがそういうことである。


この世のすべてが代替品である。

代替とは、一時的なもののこと。

つまりは偽りだということ。本物ではないということ。


平安は、この世のものとは一切関係がない。


この世のものとは関係ないからこそ、それは確実なものだということ。


だからこそ、それを求めよ!ということ。


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2017/02/22

狂気の沙汰

わたしたちの脳は、五感に疑似的な錯覚を起こすことで、

現実ではないものをあたかも現実かのように体験することが出来る。

それほどわたしたちの脳はじつに騙されやすい。


五つの感覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)というものは、

それほど当てにならないものであるといえる。


また、その五感からの情報を当てにしているこの意識(「自分」)すらも

まったく信用に値するものではないと言うことが出来る。


そんな信用に値しないこの意識(「自分」)でもって、

さらには当てになどならない五官を頼りにこの世界を認識して、

わたしたちはこの世界を生きているわけである。


まともに考えても、狂気である。

この世界でわたしたちが不安定さと危険の恐怖にさらされているのは、当然のことである。


そう、正気ならば、こんな不確かで、不安定なこの世界を現実だとは思わないはずである。


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2017/02/21

五十歩百歩

この世界に生きているかぎり、わたしたち全員が囚われ人である。


この世界に心が動かされているかぎり、この世界から完全に解放されいるわけではない。


この世界を現実だと思い込んでいるかぎり、

物理的に肉体としてこの世界にいるかぎり、

この分離の世界を知覚しているかぎり、

二元性のこの世界に囚われ続けているということ。


そこにはだれが悟っているとか、だれが霊的に進歩しているとか、

そんなことは五十歩百歩で、そのだれもにさほどちがいなんてない。


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ハワイ島マウナケア山頂(標高4205m)から見たマウイ島ハレアカラ山頂(標高3055m)


2017/02/16

そっちがいいに決まってる

この世界は生きるに値しない。無意味である。


そのような言葉は、自分自身に向けた言葉であったわけですが、

もう、そういうことを他者に向かって言葉にするのはやめようと思う。


なにがあったわけでもない。

それもまた不必要なことだと気づいただけのこと。


この世界を見るとき、すべてはそれでいいのだと思う。

そのままでいい。

あるがままでいい。


みんな自由だ。

この世界に歓び、生きがいを見出して、人生をより良くしていくのも自由。

この世界の無価値さ無意味さを見出し、この世界を超えていくことも自由。

もっと言うならば、みんながどうのこうのとそんなことはどうだっていいのだ。


ただ、何かを探し求めている者たちに言えることがあるとしたなら、

痛いのなら、痛みはない方がいい。

苦しいのなら、苦しみはなくなった方がいい。

つらいのなら、楽になった方がいい。

いつも穏やかで、和やかで、安らかな方がいいに決まってる。

そっちがいいに決まってる、ということだけである。


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