2017/03/08

ジャッジ

人の人生も、自分の人生も、

そして、世の中で起きていることも、

みんな同じパターンのことが起きているのだなと思える。

それは、ただ形態がちがうだけでどれも同じに見えてくる。

きっと、輪廻転生と呼ばれているものは、そういう仕組みなのだと思う。


ただ互いに投影し合っているのがこの世界である。

その誰を見ても、本当はみな自分なのだ。

みんながこの自分となんらちがわないと気づくとき、

そんな人たちをいちいちジャッジする必要もないし、

この自分もどんな生き方したっていいじゃないかとそう思うのである。


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2017/02/24

黙想

キリストは平安の中にいる。


静かに平安の中に佇むとき、そこにキリストがいるのがわかる。


彼はこう告げる。「私はここにいる。ただ私と共にありなさい」と。


そこに平安と歓びがある。そして、強さがある。


こうやってキリストと共にただ真理の訪れる瞬間を待つことが、

この世でのわたしたちの本来の機能なのかもしれない。


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2017/02/23

確実なもの

平穏、平安、安らぎ。

それは、なにものにも代えられないものである。

というよりも、

それは、本当はそれしかないのだから、代えられるということがない。

それは、いつもそこにあるだけである。

そして、それはここにある。


他の何かで代替しようとすること自体が、無謀なことである。

とはいえ、そういうことが出来ると思い込んでいるのが自我である。

そして、この世で行われていることは、すべてがそういうことである。


この世のすべてが代替品である。

代替とは、つまりは偽りだということ。本物ではないということ。


平穏、平安、安らぎ。

それは、この世のものとは一切関係がない。

だからこそ、それは確実なもの。


ここに、絶対なる平穏、平安、安らぎがある.

なんという祝福。


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2017/02/22

正見

わたしたちの脳は、五感に疑似的な錯覚を起こすことで、

現実ではないものをあたかも現実かのように体験することが出来る。

それほどわたしたちの脳はじつに騙されやすい。


五つの感覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)というものは、

それほど当てにならないものであるといえる。


また、その五感からの情報を当てにしているこの意識(「自分」)すらも

まったく信用に値するものではないと言うことが出来る。


そんな信用に値しないこの意識(「自分」)で以って、

さらには当てになどならない五官を頼りにこの世界を認識して、

わたしたちはこの世界を生きているわけである。


まともに考えても、

この世界でわたしたちが不安定さと危険の恐怖にさらされているのは、当然のことである。


そう、正気ならば、

こんな不確かで、不安定なこの世界を現実だとは思わないはずである。


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2017/02/16

そっちがいいに決まってる

この世界は生きるに値しない。無意味である。


そのような言葉は、自分自身に向けた言葉であったわけですが、

もう、そういうことを他者に向かって言葉にするのはやめようと思う。


なにがあったわけでもない。

それもまた不必要なことだと気づいただけのこと。


自分からこの世界を見るとき、すべてはこれでいいのだと思う。

それでいいのだと。

そのままでいい。


みんな自由だ。

この世界に歓び、生きがいを見出して、人生をより良くしていくのも自由。

この世界の無価値さ無意味さを見出し、この世界を超えていくことも自由。

もっと言うならば、みんながどうのこうのとそんなことはどうだっていいのだ。


ただ、何かを求めている者たちに言えることがあるとしたなら、

痛いのなら、痛みはない方がいい。

苦しいのなら、苦しみはなくなった方がいい。

つらいのなら、楽な方がいい。

いつも穏やかで、和やかで、安らかな方がいいに決まってる。

そっちがいいに決まってる、ということだけである。


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