2017/03/12

スピリチュアルというものへの情熱

スピリチュアルに興味がなくなってしまったわけではない。

スピリチュアルというものが自分の中で相対化されたのだと思う。

それは、もはや特別なものではなくなったということ。

今それは生活と共にあり、人生と共にある。

それは生きることそのものとなっている。


でも、それとは裏腹に、

たしかにスピリチュアルというものへの情熱が失せてしまったことは事実である。


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2017/03/08

ジャッジ

人の人生も、自分の人生も、

そして、世の中で起きていることも、

みんな同じパターンのことが起きているのだなと思える。

それは、ただ形態がちがうだけでどれも同じに見えてくる。

きっと、輪廻転生と呼ばれているものは、そういう仕組みなのだと思う。

でも真実は、ただ互いに投影し合っているだけのことである。

その誰を見ても自分なのだということがわかる。

みんながこの自分となんらちがわないと気づくとき、

そんな人たちをいちいちジャッジする必要もないし、

この自分もどんな生き方だっていいじゃないかとそう思うのである。


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2017/02/24

黙想

キリストは平安の中にいる。


静かに平安の中に佇むとき、そこにキリストがいるのがわかる。


彼はこう告げる。「私はここにいる。ただ私と共にありなさい」と。


そこに平安と歓びがある。そして、強さがある。


こうやってキリストと共にただ真理の訪れる瞬間を待つことが、

この世でのわたしたちの本来の機能なのかもしれない。


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2017/02/23

確実なもの

平穏、平安、安らぎ。

それは、なにものにも代えられないものである。

というよりも、

それは、本当はそれしかないのだから、代えられるということがない。

それは、いつもそこにあるだけである。

そして、それはここにある。


他の何かで代替しようとすること自体が、無謀なことである。

とはいえ、そういうことが出来るのがこの世である。

そして、この世で行われていることは、すべてがそういうことである。


この世のすべてが代替品である。

代替とは、つまりは偽りだということ。本物ではないということ。


平穏、平安、安らぎ。

それは、この世のものとは一切関係がない。

だからこそ、それは確実なもの。


ここに、絶対なる平穏、平安、安らぎがある.

なんという祝福。

なんという歓喜。


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2017/02/22

正見

わたしたちの脳は、五感に疑似的な錯覚を起こすことで、

現実ではないものをあたかも現実かのように体験することが出来る。

それほどわたしたちの脳はじつに騙されやすい。


そしてまた、五つの感覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)というものも、

それほど当てにならないものであるといえる。


その五感からの情報を当てにしているこの意識(「自分」)すらも

まったく信用に値するものではないと言うことが出来る。


そんな信用に値しないこの意識(「自分」)で以って、

さらには当てになどならない五官を頼りにこの世界を認識して、

わたしたちはこの世界を生きているわけである。


まともに考えても、

この世界でわたしたちが不安定さと危険の恐怖にさらされているのは、当然のことである。


そう、正気ならば、

こんな不確かで、不安定なこの世界を現実だとは思わないはずである。


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