2017/02/21

五十歩百歩

実相世界からみるかぎり、

この世界に生きているわたしたち全員が囚われ人である。


この世界に心が動かされているかぎり、

無明(無智)から完全に解放されいるわけではない。


この世界を現実だと思い込んでいるかぎり、

物理的に肉体としてこの世界にいるかぎり、

この分離の世界を知覚しているかぎり、

二元性のこの世界に囚われ続けているということ。


そこにはだれが悟っているとか、だれが霊的に進歩しているとか、

そんなことは五十歩百歩で、そのだれもにさほどちがいなんてない。


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ハワイ島マウナケア山頂(標高4205m)から見たマウイ島ハレアカラ山頂(標高3055m)


2017/01/31

偶像崇拝

真理を求める者にとって、

誰かを尊敬したり崇拝したりすることは、

二元性の幻想にすっかりはまり込んでいるわけで、

真理はそこにはないと知るべきである。


また尊敬や崇拝とは反対に、誰かを下げずんだり裁いたりすることも同じである。

それは、自分をこの身体だと思っているゆえにできることであり、

真理を求める者ならば、

悟りを求める者ならば、

解脱を求める者ならば、

そういうことは、無意味だと知るべきである。


それは人だけに限らず、

この世のもの、こと、考え方、スピリチュアルな教え、教義、、、、に対して、

特別に見たり、重きを置いたりすることも同様である。

それは、二元性の幻想をただ強めるだけで、

けっして自分を自由にするものではないということ。


むしろ、すべてを手放して、無、にしていくことである。


何よりも知るべきことは、

真理に達する者にとって、

悟りに達する者にとって、

解脱していく者にとって、

この世の誰かを、この世の何かを信仰、崇拝することは、

真理とはまったくかけ離れたことであり、

ましてや、尊敬、崇拝されることもまったくの無意味であるということ。


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2017/01/26

世界の消滅

自分というものがいなければ、この世界はない。

自分がいるがぎり、この世界はここにあり続ける。


言い換えるなら、

この世界があるのは、自分がいるからだ。

この世界を知覚する自分がいなければ、この世界はない。無である。何も無い。

そう、この自分が消滅するならば、この世界も消滅する。


その自分は、自我(エゴ)という言葉で置き換えることができる。


例えば、

生まれてきたばかりの赤子には自分という意識がないゆえに、

もちろん、そこに世界はない。

そしてやがて成長し、自分という自我が芽生え始めたときに、

そのときそこに、この世界が生じる、そして、他者が生じる。


いうなれば、この道は、この世界が生じたそのはじまりへと帰っていくものであり、

赤子のように自分(自我)がない世界へと戻っていくこと、

つまりは、この世界の消滅を目指している。


この世界を超越するとは、そういうことであり、それが、目覚めである。


そう、悟りだの非二元だのといくらことばを並べようとも、

この世界を知覚しているうちは、未だ、目覚めていないということである。


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2017/01/24

この世界は生きるに値しない

この世は生きるに値しない。無意味である。


このことばは、一般的には受け入れられ難いものです。

かくいう私も、当時は、そのことばに結構反論していたものです。


この世には不幸や苦痛もたくさんあるかもしれないけれど、

その反対の素晴らしいことや幸福や快楽もたくさんあって、

わたしたちはそれらのすべてを味わい尽くすために、

いまここに人間としてこの地上に生きているのだと。


それは、過去の自分であるのですが、

まさにこの世界を勘違いして捉えていたということです。

非二元を提唱しながらも、二元性のスピリチュアリズムを超えていなかったということ。

かつての自分がそうだったということです。


ただ、この今では、それほどまでにわたしたちの心は、

この世界に引き付けられ、そして束縛されているのだと気づくのです。


歓びも哀しみも、酸いも甘いもすべて受け入れて、この世界での経験を味わい尽くすことで、

この世界を超越した心の境地に辿り着けるというものではないということ。


自分はこの世界で幸せになることを望んでいるのか?

それとも、この世界を超越した本当の幸せを望んでいるのか?


この世界は生きるに値しない。無意味である。


そのことばは、後者のためのことばであり、

後者にとっては、まさに真理のことばだといえます。


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2016/11/13

自分は身体ではない

この身体が自分だと思っているあいだは、

なかなかこの世界から解放されようにも困難なように思います。


なにせ、わたしたちは、普段、この身体を自分だと思って生きています。

それゆえに、自分以外のみんなを別々の存在というふうに錯覚してしまいます。

そして、その錯覚(勘違い)こそが、自分をこの世に留めている要因だと言えます。


この身体も、他者も、この地上のあらゆるものがこの世のものであると同時に、

それらすべてが自分の(間違った)心の投影にしかすぎません。

(じつはこの時点ですでにわたしたちは二重の錯覚を起こしています)

それは、この身体は自分ではないことを意味しますし、

自分は、この世には属していないことを意味します。


わたしたちは、五感というものを通して、ちょうど自分を鏡でみているようなものといえます。

すべてが自分です。

あらゆるもののなかに自分自身をみています。

そのためにわたしたちは身体(五官)を必要としたともいえます。

そして、わたしたちは、この身体と自分を同一化してしまって、

それによって、他(者)が存在するようにみえるのです。

でも、じつは他者など存在しません。


とはいえ、いくら知識では分かっているつもりではいても、

実際に日常の生活のなかで、なかなかそのような意識で生きているとはいえません。


この世は鏡に映る自分をみているようなものです。

そのことに真に気づいたら、もうだれも裁くことはできないし、

そのままをゆるしていくことの本当の意味がわかるでしょう。

そして、鏡に映る世界をいくら修正しようとしても、

それは本当の解決にはならないことも理解するでしょう。


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ハワイ島キラウエア火山