2017/05/20

過去から脱却する

コース(奇跡講座/奇跡のコース)は、

この世界から完全に自由になっていく道を示したものだということが出来ます。


この世界は、自分が見ている夢であり、

その夢から目覚めていく道をコース(奇跡講座/奇跡のコース)は示してくれています。


それは、二元性超えて、この世のあらゆるものから解放されていく道であります。

時間がもはや不要になるときである時間の終結、

つまり生と死の輪廻 の終焉を目指しているものだということです。

それは、エゴ(自我)を解体し、生と死の輪廻の循環を終えることを意味します。


仏教で云うならば、「解脱」へ至る道ということが出来ます。

「解脱」とは、時間の中の魂の旅の終わりを意味します。

それは輪廻ということばで表現され、

わたしたちは、過去からずっと同じことをただぐるぐるとそのかたちを変えて

この世界で繰り返しているだけで、

そこから脱却して真に自由になることを「解脱」と呼んでいます。


コースでは、

「わたしたちが見ているこの世界はすべて過去である」という言い方をします。


I see only the past
私は、ただ過去だけを見ている。

ー『ア・コース・イン・ミラクルズ』ワークブック レッスン7-


わたしたちは、世界に過去を投影して生きていて、

それは記憶の世界で生きているようなものであり、一種の夢のようなものだということです。

わたしたちが思考している想念(イメージ)すらもそうだといいます。

たとえ、未来のことを考えていても、過去を投影しているだけのことといえます。


ということは、自分が知覚するもの、自分が考えるもの、

そのすべてが夢の中の幻想であり、まったくの無意味なものであるということです。


そのことを受け入れるならば、

この一瞬一瞬を聖霊に明け渡して、

自分のそれらの幻想をすべて放棄していくという実践が、

どんなに大事なことなのかがわかります。


そう、その一つ一つの実践(心の訓練)は、

過去から脱却していくということであり、

時間の外側に出るということであり、

解脱、つまり、時間の終わりへと

一歩一歩近づいていくためのアプローチなのだ云うことが出来ます。


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2017/05/12

自由について

一般的に「自由」と云いますと、

この物質的空間において、

身体が行きたい時に行きたい場所へと物理的に行ったり来たりすることが、

自由だと思われています。


ひとは、まさにそれを「自由」だと勘違いして、

ときに、そういうものに憧れて追い求めたりします。

引き寄せの法則だの、願望実現だのといったものなんかも、

そのような「自由」を追い求めているものだと云うことが出来ます。


でも、目覚めでいうところの真の自由は、

この世界におけるそういうものとは一切関係がありません。


この世界で「自由」と呼ばれているものは、

所詮、自分の見ている夢の中であっちに行ったりこっちに行ったりしているだけのことです。

夢の中に縛られたままで、自分の夢からは自由ではありません。

この世界の法則に縛られたままで、この世界からは解放されていません。


身体の物理的な自由を求めている限り、

自由が見出せない場所に自由を探すことになります。



I am not a body. I am free.
私は身体ではない。私は自由だ。


Freedom must be impossible as long as you perceive a body as yourself.

あなたが身体が自分だと知覚するかぎりは、自由になるのは不可能です。

The body is a limit.
身体とはひとつの制限です。


ー『ACIM(奇跡講座/奇跡のコース)ワークブック レッスン199』よりー 



<わたし>は、身体ではない。

<わたし>とは、この世界の夢を見ている主体であるソレである。

<わたし>とは、スピリットである。


それを受け入れていくとき、ますます心がこの世界から自由になっていくのを感じます。


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2017/04/29

放棄について

放棄すること、手放すことは、本来、歓びです。


ただし、心を伴わずして、かたちのレベルだけで放棄しようとするなら、

それはまるで失うことのように感じられることになります。


そう、この世界や、この世界のものを現実だと思いながら、

放棄する、手放すということをするならば、

それは、喪失、犠牲、虚無、苦しみとして感じられることでしょう。

それはかたちのレベルでやっても意味がないことを意味しますし、

それではかえって葛藤や苦痛を生むだけです。


放棄することや、手放していくことは、エゴにとっては怖れです。

その想いは、エゴによる錯覚(幻想)なのですが、

もし、放棄する、手放すことに対してそのような感覚を感じるのであるならば、

むしろ、その自分の内側に感じているものと向き合うべきだといえます。

そこに向き合っていくならば、そこには解放をもたらす大きなヒントが隠れています。


わたしたちは、目覚めていくプロセスにおいて、

いずれこの世界のすべてを放棄していくことになりますが、

放棄は、かたちのレベルではなく、心のレベルで行われていかなければなりません。


心のレベルで放棄がなされているなら、

かたちのレベルで放棄していくことがなんの抵抗もなくできるといえます。

むしろ、そこには歓びがあります。

より解放されていく感覚や、より自由になって身軽になっていく感覚が伴うからです。


「放棄すること、手放すこと」とは、

幻想に価値を置かないで、神を選択していることと同じことです。

またそれは、聖霊の手にゆだねていくということなのです。

ゆえに、そこには歓びがあるのです。


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2017/02/10

求むるは実在のみ

目覚めとは、幻想から目覚めるということであり、

幻想の中で別の幻想に移行することではない。


たしかに、そのプロセスにおいて幻想の内容は移り変わっていくかもしれないが、

たとえ、それが良い幻想であろうが悪い幻想であろうが、

どのようなものであろうとそういった幻想に価値を置くことは何の意味もない。


幻想を「より良く」しようとするならば、それが自らを幻想へと引き込むことになる。

そして、その「より良く」しようとする願望が、やがて苦しみを生みだすことになる。

それが、この二元性世界の原理である。


幻想の中で別の幻想に移ることを求めるわけではない。

求むるは実在のみ。

それ以外は、いかなる程度も関係なくそれらすべてが幻想である。


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2017/02/05

救済主とはだれか

この世界は、癒されていない心によって作り出された世界である。


なぜなら、癒された心は、この世界を必要としない。

癒された心は、未来を必要としない、つまりは、この時間の世界を必要とはしない。

もう癒しを必要とはしない、それゆえに、もはやこの世界が無意味なものになる。


この世界にいる者たちは、

自分自身も含めて、まだ癒されていないということであり、

そのためにこの世界にいるのだと言うことが出来る。


もっと言えば、他者とは、自分の心の写し鏡である。

ということは、もっとも癒されるべき存在とはこの自分自身であり、

この自分を癒すために、他者は存在しているといえる。


そう、じつは、

だれもが癒し手であり、なおかつ、癒される者であるということ。

自分の目の前に投影した他者を通して自分を癒し、

そして、真の(大いなる)自己に帰っていけるようになっているのがこの世界の仕組みである。


そう、この世界では、だれもがだれかのための癒し手の役割を果たしている。

しかもそれは、この世界で癒しに関わることをしていようがいまいが、

どんなことをしていようが関係がないということ。


他者は、そのために存在し、じつのところ、その他者とは自分自身(の一部)である。


結局は、自分を救済するのは、この自分自身である。

そして、救済すべき存在とは、他のだれでもなく自分自身である。

だれも他の誰かを救済することはできないし、ましてや、救済すべき他者などいない。

それよりも自分を救済することこそが、

他者を救うということであり、ひいてはこの世界の救済になるということだ。


この世界に、他者はいない。

自分しかいないゆえに、救うのは自分であり、救われるのも自分である。

癒すのも自分であり、癒されるのも自分である。

そして、この世界では、だれもがお互いに他者を通して自分を癒すために、

自己と他者の関係として存在している。


自分が救われるとき、自分だけが救われるのではない。

自分の見ている世界の生きとし生けるものすべてが救われるのだ。


その真理(仕組み)を悟る者は、その真理を生きはじめることになる。

つまり、自分自身の救済のための道を歩みはじめる。

そして、その道を歩む者は、

自らが見ている世界において救世主(キリスト)として君臨するようになるであろう。


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