2018/06/07

神秘の道

神の願望とはちがう願望を抱いていたならば、
わたしたちが不快な感覚や感情を抱くのは当然のことだといえます。
(「平安へ到達するためのツール」の記事を参照ください)

わたしたちは、それを怖れや苦しみとして知覚します。
その怖れや苦しみにこそ訂正されるためのヒントが隠されていると言えます。

ネガティブな感情や記憶がどんどん浮上してくるのは、すべて赦しのためだということです。

つい、わたしたちは、知覚する外観のほうに惑わされてしまいがちです。
その知覚しているものすべてが神の願望とはちがう願望を抱いた結果として
ただ経験しているにしかすぎません。

ずっと逃げてきた、避けてきた、内側の怖れや苦しみのほうに目を向けてみてください。

そこにあなたがこの世界から解放されるヒントが隠されています。

それは、まさに奇跡の道のはじまりとなるでしょう。

またそれは、神秘力を思い出すきっかけとなるでしょう。

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2018/06/05

「強さ」について

ガイダンスからのメッセージです。
テーマは、「強さ(strength)」について、です。

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強さとは、自分自身に正直であることです。

正直でありなさい。

たとえば、
「嘘をついて生きる」のと「正直に生きる」のとでは、
どちらが力強いか?と言った場合、
それは「正直に生きる」ことのほうに決まっています。

嘘を生きている人は、嘘がバレないようにごまかす必要があり、
そのためにどうしても脆さが生じて、それを取り繕うための防御が必要になるのです。

ある一つの嘘をついたならば、そのことを隠し続けていくために、
辻褄を合わせるためにさらにまたさまざまな嘘をつかねばならなくなります。

嘘とは、真実をこまかすこと。

ようするに、真実をごまかしたとき、防御が必要になるということです。
そして、 それによって脆く弱い存在として生きねばならなくなるということです。

自分に正直になっていきなさい。
自分に正直になっていくだけでいいのです。
ただ自分の心に素直になっていけばいいのです。
それが、赤子のように無垢になる、ということです。

自分自身についての真実を明らさまにしていくのです。

真のあなたとは何者か?
そのことを思い出しなさい。

そうなのです。
あなたは、あなた自身に重大な嘘をついているといえます。
「私は人間である」「私は身体である」というもので、
自分を卑小な存在として偽っているのです。

あなたは、一なるスピリットであり、神聖であり、光であり、神である、、、
という真実をごまかしているということです。

その真実を隠しながらいくら強く生きようとしても、
それは儚く脆いものでしかない、ということは明らかです。

あなたは本当の強さというもの忘れてしまっています。
あなた、強くなる必要はありません。
強くなろうとする必要もありません。
そもそもが脆く弱く卑小な存在とは真反対な存在なのですから。

「強さ」とは、ただ真の自分を偽ることをやめるだけのことなのです。

自分に正直になっていくこと。
それが真の自己を思い出すためにあなたがすべきことなのです。

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2018/06/04

何もする必要はない

この世に生きるわたしたちは、だれもが必ず何かしらを心の拠り所として生きています。
なぜなら、それなしで生きることなどできないからです。

というのも、本来は神に支えられているわけですが、その神を見失ってしまっているゆえ、
その代替となるものを拠り所としようとしているのがわたしたちだということが出来ます。

自分以外のだれかや何かを心の拠り所とすることを、信仰、という言い方をします。
「信頼」という言い方をしてもかまいません。

そういう意味では、人はだれしも何かしら信仰をしていると言うことが出来ます。

たとえ、「自分は無宗教、無信仰」だと思っている人でさえ、
じつのところ、信仰の対象がこの世のものになり変わっているだけで、
信仰しているという点ではなんら変わりないのです。

この私自身、自分の心に正直になるならば、神(の国)を求めているとはいうものの、
まだまだ神(の国)よりもこの世のものを信頼していることに気づかされます。
神よりも「お金」のほうをよほど信頼していることを否定できません。笑

だとしても、そんな自分をジャッジする必要もなければ、
そんな自分を無理やり変えていく必要はないということです。

もっと的確な言い方をすれば、この自分にはジャッジすることなど出来なければ、
自分で自分を変える(訂正する)ことなど出来ないということです。

ガイダンスはこう言います。

いくらあなたが自分(の力)で、この世のものを手放して神だけを信頼しようとしても、
そんなことはあなたには出来ないのです。
なぜなら、それは聖霊の仕事だからです。

逆に、いずれあなたがこの世から自由になっていくとき、
あなたはこの世に信頼をいくら置こうとしても、
あなたはもうこの世のものを信頼することなどできなくなっていることでしょう。

あなたは自分でどうにかする必要はないのです。
聖霊にすべてをやってもらいなさい。
聖霊にすべてを任せなさい。明け渡しなさい。

あなたがすべきことはただそれだけなのです。

この時間と空間の中で、あなたがしていくことはただそれだけでいいのです。

聖霊は、あなたがそのことに気づくときをただ静かにずっと待っています、と。


この道は、そのような道だということが少しづつ腑に落ちてきた今日この頃です。

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2018/06/02

辻褄が合わない

コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学んでいくと、
もうその他のスピリチュアリズムにはまったく興味がなくなっていくのがわかります。

なぜなら、コース以外のスピリチュアリティには妥協があるのがわかるからです。
妥協、とは、例外があるということ。

コースの道だけが唯一優れているとはけっして言いませんが、
純粋非二元のスピリチュアリティには妥協がありません。
例外がありません。

二元性のスピリチュアリズムにも、ノンデュアリティのスピリチュアリズムにも、
まるで辻褄が合っていないのがみえます。
妥協しているからこそ、辻褄が合っていないのです。
興味が向かないのも、そういう理由からかもしれません。

辻褄が合わないスピリチュアリティに何の価値があるというのでしょう。

そんなことを想う今日この頃です。

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2018/06/01

これは心の訓練をしていく道である

今日から6月です。
今日の福岡の空は朝から晴れていて、とても心地よい気候です。

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いよいよ今月でこの福岡を離れます。

今は、沖縄引っ越しに向けて所有物の整理をしています。
身の回りの物を少しづつ必要最小限に減らしていっておりまして、
住まいの部屋の中がずいぶんとシンプルな生活空間へと様変わりしていっています。

それはまるで自分の心の中が整理されていっているようでもあります。

ふつうは、所有物が減っていくと失っていくような感覚がしていくものなのですが、
むしろ、ますます心が軽くなっていくような感覚を感じています。

いずれにせよ、わたしたちはいつのときか必ず手ぶらになるのです。
というのも、それこそが本来のわたしたちなのですから。
自我はそうなることを怖れています。
その自我こそが、無(幻影)なのです。

とはいえ、形態(かたち)のレベルで手放していってもそうすることが目的ではありません。
それは、心のレベルでなされるものでなければなりません。

まだ必要とするものを、あえて手放す必要はないということです。
むしろ、それでは「犠牲」とか「あきらめ」というもので自分をごまかすことになります。
そして、聖霊はそうそういうことをわたしたちに望んではいません。
ましてや、聖霊はそのようなことを要求したりはけっしてしません。

ときに、コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)というものを
そのようなもの(すべてをあきらめていくもの)として誤解しがちになったりしますが、
そのようなものとして学びを捉えるなら、それこそが自我の罠として気づかねばなりません。

そうやって、わたしたちはスピリチュアル探究をまるで修行のように捉えてきたのです。
そして、そこには何の救いも見出されなかったという経験をしてきたといえます。

たしかに、この世界にはわたしたちを本当の意味で幸せにしてくれるものは何一つありません。
だからといって、この世界を直ちに放棄しなさいというものでもありません。

真理からすれば、それはいまこの瞬間に、と言えますが、
そうなるにはマインドをトレーニング(心の訓練を)していく必要があるということです。

これは心の訓練をしていく道であるといえます。
それは、プロセスが必要だということです。
せめて時間と空間の中にいるということは、すべきことがあると。
これまでも、そしてこのときも、自我で生きているわたしたちにとって、
体験を通してこの世界を無(価値のないもの)としていく必要があるのだということです。

そのためにこの時間と空間の中にいるこの自分がしていくことは、
ジャッジしていたのを止めて、一歩下がって、
ただ聖霊に導かれて、明け渡して、ゆだねていくことだけなのだといえます。

それを、コースでは「赦し」といいます。


今の私自身のことでいいますと、
目で見える形態(かたち)のレベルでは、引っ越しのためにいろいろ整理していっていますが、
心のレベルでは、一旦、これまでのものを手放して終わる必要があるのだと思っています。

それは、赦しの実践のさらなる段階への移行であり、
今、私は、その準備を整えていっているのだと感じています。

その準備とは、聖霊に明け渡して生きる、という準備です。
その心の準備が整わずして、この世界を放棄する、というのはとうてい無理なことです。

そして今、私は、その実践の段階にきたことを自覚する今日この頃です。

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